中国の中央銀行デジタル通貨(CBDC)であるデジタル人民元が、2026年1月1日から商業銀行発行を軸とする新体制へ移行する。既に累計取引額が16.7兆元(約340兆円)に達したこの国家主導の通貨は、国内決済の高度化に留まらない。米ドルを基軸とする国際金融秩序への挑戦という地政学的な意味合いを帯び、国際決済銀行(BIS)を巻き込んだ実証実験は、既存の国際送金網SWIFTを介さない決済路の構築を視野に入れる。この動きは、中国で事業を展開する日本企業に対し、新たな決済の選択肢と、取引データ管理という根深い課題を同時に突きつけている。

商業銀行発行へ、二層構造の狙い

2026年1月から始動する新体制の核心は、デジタル人民元の発行・流通主体を商業銀行へ移管する点にある。中国人民銀行が10月に公表した行動計画によれば、中央銀行は基盤技術の提供と監督管理に専念し、実際の通貨発行と利用者への供給は中国工商銀行や中国農業銀行といった指定商業銀行が担う「二層構造」を法的に確立する。これは、中央銀行が直接国民の預金を管理することによる金融仲介機能の毀損を避け、既存の金融システムの安定性を維持するための設計思想である。人民銀行の陸磊・副総裁が示した方針は、金融政策と決済システムの分離を明確にするものだ。この構造は、民間銀行のサービス開発競争を促し、利用者拡大を加速させる狙いも持つ。技術的には、デジタル人民元は分散型台帳技術(DLT)の要素を取り入れつつも、人民銀行が一元的に取引を承認・記録する中央集権型の「管理された台帳」で運用される。これにより、ビットコインのような暗号資産が持つ処理速度の遅延や匿名性の問題を回避し、国家による完全な管理を可能にしている。2025年11月末時点で個人向け口座が2.3億、法人向けが1884万に達した背景には、この堅牢な中央管理体制への信頼感があると人民銀行は説明する。

なぜAlipay全盛の国でCBDCが必要か?

中国では既にアントグループの「支付宝(Alipay)」と騰訊控股(テンセント)の「微信支付(WeChat Pay)」が決済市場の9割超を占有している。この状況下で国家がCBDCを推進する最大の理由は、民間プラットフォームに過度に依存する金融システムのリスク分散と、決済データの国家による完全な掌握にある。民間決済は利便性が高い一方、一企業の経営判断やシステム障害が国民生活を麻痺させる脆弱性を内包する。人民銀行は、デジタル人民元を「究極のバックアップシステム」と位置づけ、金融インフラの冗長性を確保する。さらに重要なのがデータ主権の確立だ。AlipayやWeChat Payが蓄積する膨大な取引履歴は、民間企業の手にある。デジタル人民元は、全ての取引データを人民銀行の管理下に置くことで、より精密な金融政策の実行や、脱税・資金洗浄といった不正行為の追跡を可能にする。例えば、特定の地域や産業に限定した時限付きの給付金配布など、従来の金融政策では不可能だった機動的な経済対策が技術的に実現できる。これは、経済の安定化に寄与する一方、個人の消費行動が国家によって筒抜けになるというプライバシー上の懸念と表裏一体であり、国内外からその運用方針が注視されている。

16.7兆元流通、試行段階の成果と課題

2019年末から始まったデジタル人民元の試行は、驚異的な速さで規模を拡大した。人民銀行の2025年11月末時点の発表によれば、累計取引額は16兆7000億元、取引件数は34億8000万件に上る。これは、2024年同時期の累計取引額約10兆元から1年で67%増加した計算となり、普及が加速していることを示す。実証実験は北京や上海、深圳など26の主要都市・地域で実施され、公共料金の支払いや交通機関、小売店での利用に加え、企業の給与支払いにも用途が広がっている。特に注目されるのは、通信環境がない場所でも決済が可能なオフライン決済機能や、ICカード型のハードウェアウォレットだ。スマートフォンを持たない高齢者や外国人旅行者の利便性を高める狙いがあり、既存のスマホ決済サービスとの差別化要因となっている。しかし、課題も残る。取引額は大きいものの、その多くは政府主導の消費喚起策による給付金利用が占めるとの見方がある。日常的な小口決済においては、依然としてAlipayやWeChat Payの利便性が勝っており、利用者が積極的にデジタル人民元へ移行する強い誘因は乏しいのが実情だ。今後、商業銀行がどのような付加価値サービスを提供し、利用者の裾野を広げられるかが、本格普及に向けた試金石となる。

SWIFTへの挑戦、mBridge計画の実態

デジタル人民元の射程は、国内決済に留まらない。中国が最も注力するのが、国際決済銀行(BIS)と共同で進める「mBridge(マルチCBDCブリッジ)」計画だ。これは、複数の国の中央銀行デジタル通貨を単一のプラットフォーム上で直接交換可能にする構想で、中国、香港、タイ、アラブ首長国連邦(UAE)の中央銀行が参加している。2024年6月にはサウジアラビア中央銀行が本格参加を発表し、中東の資源大国を取り込んだことで、その地政学的重要性が一層高まった。mBridgeの最大の目的は、米ドルを介さず、かつ国際銀行間通信協会(SWIFT)のネットワークを経由せずに、国家間の直接送金を低コストかつ即時に実現することにある。BISの報告書によれば、mBridgeを用いた国際送金コストは、従来の方法に比べて最大50%削減できる可能性があるという。これは、米国の金融制裁の影響を受けずに国際貿易を継続したい国々にとって極めて魅力的だ。特に、中国が進める広域経済圏構想「一帯一路」参加国との貿易決済や、人民元建てでの原油取引への応用が期待される。2024年には、フランスの金融大手BNPパリバがmBridge上で取引を完了するなど、欧州の金融機関も関心を示す。SWIFTが1日に約4,480万件(2023年平均)の決済情報を処理する巨大インフラを即座に代替するのは非現実的だが、特定の二国間・多国間取引で並行して利用される「バイパス路」として、着実に存在感を増している。

日本企業が直面する二つの選択肢

デジタル人民元の普及と国際化は、中国で事業を展開する日本企業に新たな経営判断を迫る。一つは、決済効率化という「機会」の活用だ。サプライチェーン上の部品代金支払いや現地従業員への給与振り込みにデジタル人民元を用いれば、商業銀行を介した従来の送金に比べ、手数料の削減と決済の即時化が期待できる。特に、多数の現地取引先を抱える製造業や、広範な消費者向けサービスを展開する小売業にとっては、経理業務の負担軽減に直結する可能性がある。既に一部の日系コンビニエンスストアでは、試行地域でのデジタル人民元決済に対応する動きが出ている。しかし、その裏側には「リスク」が潜む。デジタル人民元での取引は、その全てが人民銀行の管理する台帳に記録される。これは、日本企業の商流、資金の流れ、顧客情報といった経営の根幹に関わるデータが、中国当局の監督下に置かれることを意味する。経済安全保障の観点から、どの範囲の取引までをデジタル人民元に移行させるか、慎重な検討が不可欠だ。米中対立が先鋭化する局面では、取引データが意図せぬ形で利用される可能性もゼロではない。日本政府は、自国版CBDCの研究を進めると同時に、G7など同盟国と連携し、CBDCのプライバシー保護や相互運用性に関する国際的な規律作りを主導する必要がある。企業は、目先の効率性のみならず、データガバナンスと地政学リスクという二つの天秤を睨みながら、中国事業における決済戦略を再構築しなければならない岐路に立たされている。