中国海警局が台湾の実効支配下にある金門島周辺で「法執行」と称する巡回活動を常態化させている。2024年に入り活動は前年同期比で急増し、台湾が設定する禁・限制水域への侵入も辞さない姿勢は、偶発的衝突の危険性を高める。この「灰色地帯」での圧迫は、世界の半導体生産能力の約6割を握る台湾の安定を揺るがし、最先端半導体を台湾積体電路製造(TSMC)に依存する日本の製造業にも、事業継続計画(BCP)の抜本的な見直しを迫っている。

「法執行」名目の侵犯、常態化へ

金門島周辺海域における緊張は、2024年2月14日に発生した中国漁船の転覆事案を契機に一気に高まった。台湾の沿岸警備隊による追跡を振り切ろうとした中国船が転覆し、乗員2人が死亡。これに対し中国側は「悪質な事件」と反発し、福建海警局が同海域での「常態的な法執行巡回活動」を開始すると宣言した。台湾国防部が2024年6月に公表した統計によれば、宣言以降の3カ月間で中国海警局の艦船が金門島の禁・限制水域(台湾側が設定した領海に相当する海域)に侵入した回数は、月平均9回に達した。これは前年同期にはほぼ観測されなかった活動水準である。台湾の海洋委員会海巡署の報告では、5月には最大7隻の海警艦船が同時に展開し、台湾側の巡視船と対峙する事態も発生している。中国側は2021年2月に施行した海警法に基づき、自らが管轄権を主張する海域で武器使用を含む強制措置を可能としており、現場の行動はより強硬になる傾向が見られる。これは、台湾側の実効支配を事実上認めず、管轄権を徐々に浸食しようとする「サラミ・スライス」戦術の一環と見られる。

なぜ金門島が標的なのか?

中国大陸からわずか数キロメートルに位置する金門島は、台湾本島から約200キロメートル離れており、地理的に中国の影響を強く受ける。歴史的にも国共内戦の最前線であり、1958年には大規模な砲撃戦(金門砲戦)の舞台となった。この象徴的な島に圧力をかけることは、台湾本島に直接軍事行動を起こすよりも国際社会の反発を抑えやすく、かつ台湾内部の動揺を誘う上で効果的との計算が働いていると見られる。台湾の民間シンクタンク、国防安全研究院(INDSR)が2023年12月に発表した分析では、こうした灰色地帯戦術は「武力行使に至らない範囲で、相手の意思決定を麻痺させ、譲歩を引き出す」ことを目的としていると指摘する。金門島周辺での活動を常態化させることで、台湾が設定した禁・限制水域の法的根拠を形骸化させ、台湾海峡が「内海」であるとの主張を既成事実化する狙いが透ける。台湾の2024年1月の総統選挙で民進党政権が継続したことへの不満表明という側面も否定できない。海警局の活動は、軍事侵攻という最悪の事態を避けつつ、台湾の主権を内側から切り崩すための布石と解釈するのが妥当である。

半導体供給網への「間接的圧力」

金門島自体に大規模な産業基盤はない。しかし、同島周辺での緊張激化は台湾海峡全体の航行の自由を脅かし、世界経済の急所である半導体供給網に深刻な影響を及ぼす。米半導体工業会(SIA)の2023年報告書によると、台湾は世界の半導体受託生産能力の約67%を占め、特に回路線幅7ナノメートル以下の最先端品に至ってはTSMC1社で92%という寡占的な地位を確立している。日本の自動車、電機、通信機器メーカーは、これらの先端半導体なしには製品を製造できない。台湾海峡は、中東から日本へ向かう原油タンカーの9割近くが通過する最重要の海上交通路(シーレーン)でもある。国土交通省の2022年海事報告によれば、日本の輸出入コンテナ貨物の相当数がこの海域を経由しており、封鎖や航行制限は日本経済に即座に打撃を与える。実際、2022年8月のナンシー・ペロシ米下院議長(当時)の訪台時に中国が実施した軍事演習では、台湾周辺の6海域が事実上封鎖され、一部の航空便や船舶が迂回を余儀なくされた。金門島での「法執行」は、こうした供給網の脆弱性を常に意識させることで、関係各国に台湾への支援を躊躇させる間接的な圧力となっている。

日本が握る「見えざる支配力」の行方

台湾有事のリスクが経済安全保障上の最大の懸案となる一方、日本は半導体製造の根幹を支える素材・装置分野で代替困難な地位を占める。この「見えざる支配力」は、危機下において重要な交渉力となりうる。例えば、半導体の回路パターンをシリコンウエハーに転写するEUV(極端紫外線)リソグラフィ工程に不可欠なフォトレジスト(感光材)は、JSR、信越化学工業、東京応化工業といった日本企業が世界市場の約9割を握る。シリコンウエハー自体も信越化学工業とSUMCOの2社で世界シェアの約6割を占有する(2023年、仏調査会社Yole Développement調べ)。さらに、ウエハーを洗浄する高純度フッ化水素はステラケミファや森田化学工業が高い技術力を持ち、ウエハーを平坦化するCMPスラリーや、回路検査装置(アドバンテスト、レーザーテック)、成膜・塗布装置(東京エレクトロン)など、製造工程の至る所で日本企業の技術が不可欠だ。TSMCが熊本に建設したJASM(Japan Advanced Semiconductor Manufacturing)は、ソニーグループやデンソーとの協業であり、日本の部材・装置メーカーとの連携を前提としている。台湾海峡の不安定化は、これら日本企業の事業継続にも直結する一方、日本が供給を止めれば世界の半導体生産が滞るという相互依存関係が存在する。この構造をどう地政学的な安定に繋げるか、政府と産業界の戦略が問われている。

日本企業が直面する選択

金門島をめぐる情勢は、台湾有事が遠い未来の脅威ではなく、事業計画に織り込むべき現実的なリスクであることを示している。帝国データバンクが2023年8月に実施した調査では、台湾有事を想定した事業継続計画(BCP)を「策定している」と回答した企業はわずか8.5%、「策定を検討している」も16.1%にとどまり、7割以上の企業が具体的な対応に着手できていない実態が明らかになった。多くの企業にとって、TSMCなどが担う先端半導体の調達先を即座に分散させることは不可能に近い。しかし、代替調達先のリストアップや在庫水準の見直し、生産能力が比較的低い旧世代半導体への切り替え可能性の技術的検証など、着手できる対策は存在する。経済産業省は2022年より「特定重要物資」に半導体を指定し、ラピダスによる次世代半導体の国内生産支援や、TSMCの熊本工場誘致などを通じて供給網の強靭化を図っているが、その成果が結実するには数年を要する。当面、企業は自社のサプライチェーンを再精査し、台湾海峡の地政学リスクがどの工程に、どの程度の財務的影響をもたらすかを定量的に把握する必要がある。金門島の緊張は、その緊急性を改めて突きつけている。