中国人民解放軍が台湾周辺で開始した統合軍事演習「正義の使命2025」は、世界の半導体供給網の中核である台湾積体電路製造(TSMC)の稼働停止リスクを現実的な経営課題として突きつけた。演習による物理的な封鎖が現実となれば、米半導体工業会(SIA)とボストン・コンサルティング・グループの2021年4月の試算に基づけば、世界の電子機器産業の年間売上高は約4900億ドル(約74兆円、1ドル150円換算)減少し、経済的損失は1兆ドル(約150兆円)規模に達する可能性がある。この事態は、TSMCに最先端の製造装置や素材を供給する東京エレクトロンや信越化学工業など、日本の基幹産業にも直接的な影響を及ぼす。地政学的な緊張が、企業の事業継続計画(BCP)の抜本的な見直しを迫っている。
「正義の使命2025」が示す封鎖能力
中国人民解放軍東部戦区が12月29日に発表した「正義の使命2025」は、過去の演習とは一線を画す規模と内容を持つ。台湾国防部の同日発表によれば、演習初日だけで中国軍機延べ103機、艦船延べ9隻が台湾周辺の海空域に進入。これは、2022年8月のナンシー・ペロシ米下院議長(当時)訪台時に記録した単日の最大数、軍機90機超を上回る規模である。今回の演習は台湾海峡のみならず、台湾を取り囲む北部、南西部、東部の海空域で同時に展開され、海空の封鎖、重要目標への精密攻撃、統合戦闘能力の検証を目的としている。特に台湾東岸沖での活動活発化は、米軍の介入を阻止し、台湾のエネルギー輸入や製品輸出の生命線である海上交通路を完全に遮断する能力を誇示する狙いが見て取れる。台湾経済部が公表するエネルギー統計によれば、台湾のエネルギー自給率は2%未満であり、原油や液化天然ガス(LNG)の輸入が数週間停止するだけで、産業活動は深刻な打撃を受ける。今回の演習は、武力侵攻そのものよりも、経済的な圧迫による屈服を狙う「非軍事」と「軍事」の境界領域における新たな段階を示唆している。
なぜ台湾海峡の緊張が半導体供給を揺るがすのか?
台湾海峡の地政学的リスクが世界経済の急所となる理由は、世界の半導体製造がこの地に極度に集中しているためである。市場調査会社トレンドフォースの2024年第1四半期時点の調査によれば、世界の半導体受託製造(ファウンドリー)市場における台湾企業の合計シェアは69%に達し、中でもTSMC単独で62%を占める。特に、スマートフォンやAIサーバーに不可欠な回路線幅5ナノメートル(ナノは10億分の1)以下の最先端半導体においては、TSMCのシェアは90%を超える独占状態にある。半導体工場は、数分間の停電やわずかな振動でも生産ライン上のウエハーが全損する極めて繊細な施設だ。24時間365日の安定稼働が前提であり、電力、超純水、特殊ガス、各種化学材料の供給が一つでも途絶すれば、数千億円規模の損失に繋がりかねない。台湾有事の際には、ミサイル攻撃による物理的破壊だけでなく、海上・航空輸送の遮断による材料供給の停止や製品出荷の不能、電力網や通信網へのサイバー攻撃だけで、TSMCの生産能力は事実上無力化される。この脆弱性こそが、中国の軍事演習が単なる威嚇に留まらない経済的な意味を持つ根源である。
TSMC停止、世界経済損失130兆円の試算根拠
TSMCの生産が1年間完全に停止した場合、その影響は半導体産業に留まらない。米半導体工業会(SIA)とボストン・コンサルティング・グループが2021年4月に公表した報告書「国家安全保障と競争力のための半導体サプライチェーンの強化」は、台湾の生産能力が恒久的に失われた場合、世界の電子機器メーカーが被る機会損失は年間4900億ドルに上ると試算した。これはあくまで電子機器産業の直接的な損失であり、自動車、産業機械、医療機器など半導体を利用するあらゆる産業への波及を考慮すれば、その経済的損失は1兆ドル(約150兆円)規模に達すると複数の経済専門家は指摘する。例えば、現代の自動車1台あたりには1,000個以上の半導体が搭載されており、その供給が滞れば自動車メーカーは生産ラインを停止せざるを得ない。実際、2021年の半導体不足では、世界の自動車メーカーの生産台数が計画比で約1,000万台減少し、その影響の大きさが浮き彫りになった。TSMCが製造する高性能半導体は、NVIDIAのAI向け画像処理半導体(GPU)「H100」や、AppleのiPhoneに搭載されるプロセッサーなど、現代のデジタル経済を牽引する中核製品に組み込まれており、その供給停止は世界的な技術革新の停滞を意味する。
日本企業が握る「見えざる支配権」の実態
一見、台湾の半導体産業は自律的に機能しているように見えるが、その製造工程は日本の素材・装置メーカーへの深い依存の上に成り立っている。この構造が、台湾有事における日本企業のリスクと、同時に有事抑止における日本の潜在的な役割を複雑にしている。最先端の半導体製造に不可欠な極端紫外線(EUV)リソグラフィー工程を例に取る。この工程で使われる感光材「フォトレジスト」は、JSR、信越化学工業、東京応化工業の日本企業3社で世界市場の約9割を握る。また、半導体の基板となるシリコンウエハーは、信越化学工業とSUMCOの2社で世界シェアの約6割を占める。製造装置に目を向ければ、ウエハーにフォトレジストを塗布・現像する「コータ・デベロッパ」では東京エレクトロンが約9割、ウエハーを洗浄する装置ではSCREENホールディングスが約6割のシェアを持つ。これらの素材や装置の供給が止まれば、たとえオランダASML製の数兆円規模のEUV露光装置があっても、TSMCの工場は稼働できない。経済産業省が2023年7月に発表した資料によれば、半導体材料14品目のうち、日本は10品目で世界シェア50%以上を確保している。この「見えざる支配権」は、日本のサプライチェーンが寸断された場合、世界中の半導体生産が連鎖的に停止するリスクを内包していることを意味する。
日本企業が直面する選択
台湾有事のリスクを低減するため、世界各国でサプライチェーンの再編が加速している。その象徴が、TSMCによる熊本県での工場(JASM)建設である。日本政府が最大4760億円の補助金を投じるこの計画は、日本の半導体産業の再興と経済安全保障の強化を狙うものだ。しかし、JASMが2024年末に量産を開始する回路線幅は12〜28ナノメートル世代であり、台湾本社が担う3ナノメートル以下の最先端プロセスではない。米国アリゾナ州やドイツ・ドレスデンで計画中の工場も同様で、台湾の生産能力と技術水準を完全に代替するには、少なくとも5年から10年の時間と数十兆円規模の追加投資が必要と見られる。この現実を踏まえ、日本の素材・装置メーカーは、より現実的な事業継続計画(BCP)の策定に迫られている。具体的には、完成品在庫や重要部材の戦略的積み増し、顧客である半導体メーカーの海外拠点(米国、欧州)近隣への新たな供給・保守拠点の設置、そして台湾海峡を迂回する代替輸送ルートの確保と保険契約の見直しなどだ。これらの対策は、短期的には物流費や在庫管理費の増加を意味するが、地政学リスクを織り込んだ経営の標準費用として認識する転換が求められる。もはや台湾有事は遠い未来の脅威ではなく、日々の経営判断に組み込むべき定数となりつつある。
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