遅れるGemini 3.5 Proと、AIコーディングでの後れ。ピチャイが強気に説いたのは旗艦ではなく、トークンを17%削り採算を大きく改善したFlashの経済学だった。幹部離脱という遅れの真因まで解く。

決算発表の電話会議で、スンダー・ピチャイは珍しく語気を強めた。アナリストが問うたのは、グーグルのAIは最前線から滑り落ちたのではないか、旗艦モデルの発表がなぜこうも遅いのか、という点だった。6月に出るはずだったGemini 3.5 Proは、いまも仲間内の試用にとどまる。その空白を、競合は猛烈な速さで埋めていく。だがピチャイが繰り返し数えたのは、遅れている旗艦の名ではなかった。安く、速く、大量に働く「主力モデル」Flashの採算のほうだった。

旗艦の遅れをどう釈明するかより、彼はFlashが何を稼いでいるかを語りたがった。この温度差にこそ、いまのグーグルが置かれた場所が映っている。世界でもっとも多くの利用者にAIを配る会社が、最先端のモデルという王冠を一つ落としかけ、その代わりに、目立たない働き手の効率で勝負を組み立て直そうとしている。本稿は、旗艦がなぜ遅れたのか、Flashのどこにお金の筋が通っているのか、そして現場から静かに人が抜けていったという、あまり報じられない事情まで下りて解剖する。個別銘柄の株価や売買の話はしない。追うのは、AIをどう作り、どこで採算を取るのかという、事業設計の中身である。

旗艦モデルの遅れと、名指しされた「弱点」

Gemini 3.5 Proは、当初の予定から数か月遅れている。5月の開発者向け催しで、ピチャイは「すでに社内で使っており、翌月には出す」と語った。その翌月が過ぎ、夏に入っても、正式な発表日は示されないままだ。ブルームバーグは、遅れの原因がコーディング性能の伸び悩みにあると報じている(Search Engine Journal)。Proは、AIによるプログラミングと、AIが自律的に作業を進めるエージェントの能力を引き上げる切り札とされていた。その二つは、いまのAI競争でもっとも火花が散る領域である。

競合は待ってくれない。OpenAIは7月9日、GPT-5.6の系列とコーディングに特化した旗艦Solを出した。サム・アルトマンは、Solがエージェント型のコーディングでトークンの使用効率を54%高めたと述べている。Anthropicの最上位モデルClaude Opus 4.8は、複数のコーディング評価で首位に立つ。同社のコーディング用製品Claude Codeは、年換算の収益をおよそ470億ドルへと押し上げる原動力になった(The Planet Tools)。電話会議で、モルガン・スタンレーではなくJPモルガンのダグ・アンマスが「Geminiはなお業界の先頭にいるのか、発表がなぜ遅いのか」と切り込むと、ピチャイは「我々のモデルは一貫して最前線にある」と応じつつ、こう認めた。「AIによるコーディング、そしてエージェント型のコーディングは、伸びしろのある領域だ」。最前線を主張しながら、弱点の在り処を自ら口にした。

「主力」は旗艦ではない ― 安く速いFlashという稼ぎ頭

ピチャイが繰り返し持ち出したのは、Flashだった。彼はこれを、価格が低く、速度が速い「主力モデル」と呼ぶ。派手さでは旗艦Proに及ばないが、実際の仕事量を担うのはこちらだ。サイバーセキュリティ、顧客対応の自動化、データ分析、企業向けの業務システム。人目につかない現場で、Flashはすでに幅広く動いている。旗艦が最高の知能を示す看板だとすれば、Flashは日々の売上を運ぶ配送車である。

7月21日、グーグルはこの主力の新型を一気に投入した。中核となるGemini 3.6 Flashに加え、より軽く速いGemini 3.5 Flash-Lite、そしてサイバーセキュリティ専用のGemini 3.5 Flash Cyberである(9to5Google)。Flash-Liteは、大量の要求を低い遅延でさばく用途、たとえばエージェントによる検索や書類の処理に向けて設計された。Flash Cyberは、脆弱性を見つけて直す作業に特化し、当面は政府と信頼できる相手にのみ、限定的な試験提供として開かれる。旗艦一つの遅れが騒がれる裏で、稼ぎ頭の裾野は、静かに、しかし確実に広げられていた。

トークンを減らすことが、そのまま利益になる

主力モデルの新型で、グーグルが真っ先に掲げた売り文句は、賢さの数字ではなく、効率だった。Gemini 3.6 Flashは、前の世代に比べて出力するトークンの量を17%減らした。個別の課題では、その削減幅は65%に達するものもある。結果として、一つの仕事を仕上げるのにかかる実際の費用は、平均でおよそ31%、エージェント型のコーディングのような長い工程では最大で71%も下がった(VentureBeat)。料金も引き下げられ、入力100万トークンあたり1.5ドル、出力7.5ドルで、前の世代の出力9ドルを下回る。賢さも伸びた。ソフトウェア開発の課題を測るDeepSWEでは、3.5世代の37%から49%へ、機械学習の実務を測るMLE-Benchでは49.7%から63.9%へ上がっている。より少ないトークンで、より高い点を取る。この一点が、Flashの設計思想の芯だ。

なぜ、トークンを減らすことがそれほど大事なのか。答えは、AIの費用のかかり方にある。モデルを一度学習させれば終わり、ではない。学習を終えたモデルを、毎日、無数の利用者が使う。この「推論」と呼ばれる稼働こそが、費用の大半を食う。企業がAIに投じる計算資源の支出のうち、55%から80%は学習ではなく推論に向かうとされる(Introl)。つまり、大量に回すモデルの一回あたりの費用を削ることが、そのまま利幅に効く。トークンは、AIを動かすたびにかかる燃料代だ。同じ答えを、より少ない燃料で出せるモデルは、それだけで儲かる。旗艦が知能の頂を競う一方で、Flashは燃費を競っている。そして事業の採算は、頂ではなく燃費で決まる。

トークンを削ると、なぜ儲かるのか ― Flashという稼ぎ頭の採算
トークンを削ると、なぜ儲かるのか ― Flashという稼ぎ頭の採算

推論の費用は、この数年で急速に下がってきた。ある能力を1年前の10分の1の費用で使えるようになる、という速さで低下しており、2022年の終わりに100万トークンあたり20ドルかかった処理は、いまや0.40ドルにまで落ちた(Introl)。この下落の波に乗って、より安く動くモデルを先に量産できた者が、企業の日々の業務にAIを深く埋め込み、離れられない土台を築く。Flashの効率改善は、単なる技術自慢ではない。安さで現場を押さえるための、値下げの原資づくりである。

エージェント型コーディングという主戦場

ピチャイが「伸びしろ」と認めた領域、エージェント型のコーディングとは何か。従来のAIによるプログラミング支援は、書きかけの一行の続きを提案する補完が中心だった。エージェント型は、その次の段階にある。人間が「この機能を直して」と指示すると、AIが自分でコードベース全体を読み、どこをどう変えるかの計画を立て、複数のファイルにまたがって書き換え、テストを走らせ、失敗すれば自分で直す。人の代わりに、ソフトウェア開発の一連の工程を回す働き手だ。

この領域は、いまAI競争のもっとも激しい前線になっている。指標の上では、二強がはっきりしている。ソフトウェア開発の課題を測るSWE-bench Verifiedでは、AnthropicのClaude Opus 4.8が88.6%で首位に立つ。端末上での作業を測るTerminal-Benchでは、OpenAIのGPT-5.5が83.4%で先頭を走る(Requesty)。これに対し、グーグルの新しいFlashのDeepSWEは49%で、まだ距離がある。Claude Codeは利用者の端末の中で、ファイルやgit履歴に直に触れながら動き、100万トークンの文脈でコードベース全体を読む。Cursorは統合開発環境に溶け込み、OpenAIのCodexは隔離した仮想環境で作業を仕上げる。有料版はいずれも月20ドルから始まる。

エージェント型コーディングとは何か ― 補完から「働き手」へ
エージェント型コーディングとは何か ― 補完から「働き手」へ

グーグルが遅れた根には、構造の問題がある。OpenAIやAnthropicは、開発者に広く使われるコーディング製品を持ち、そこで生まれる現実の作業データを、次のモデルの改良に還元してきた。グーグルには、その入り口となる看板製品が乏しい。しかも社内では、DeepMind、クラウド、Android、検索の各部門が、AIコーディングの道具を同時並行で作っていた。優先順位は揺れ、作業は重複し、実行は鈍る。使われる現場を持たない者は、モデルを鍛える教材を自前で得にくい。旗艦の遅れは、能力の不足である以上に、この教材の不足から来ている。

遅れの本当の理由は、人が抜けたことにある

そして、あまり大きく報じられないもう一つの事情がある。モデルを作る人間が、抜けていったことだ。2026年6月、グーグルのDeepMindから、わずか1週間のうちに5人を超える主力の研究者が、AnthropicやOpenAIへと移った(TechCrunch)。中でも重いのが、たんぱく質の構造予測でノーベル賞を受けたジョン・ジャンパーの離脱だ。彼はグーグルのAIコーディング開発の中核にいた一人で、その移籍先はAnthropicだった。AIの土台を築いた変換器(トランスフォーマー)の論文の共著者で、Geminiの共同主導者だったノーム・シャジアはOpenAIへ、AIコーディングの研究者ヨナス・アドラーやGemini 2.5に関わったアーサー・コンミーはAnthropicへ移った。

なぜ、いま抜けるのか。理由は複数ある。上場前のAnthropic株が持つ含みの大きさ。科学と安全の研究へ広がるAnthropicの陣容。そして、グーグル社内での計算資源の奪い合いだ(Fortune)。ここに、皮肉な構図が浮かぶ。同じ決算で、グーグルは設備投資を積み増し、AIの土台づくりへ巨額を注ぐと宣言した。だが、その土台を実際に設計する研究者たちは、社内で計算を取り合った末に、外へ出ていった。旗艦Gemini 3.5 Proがコーディングでつまずいたことと、コーディングを担う人材が流出したことは、別々の事件ではない。作る人が抜けた現場では、旗艦が予定どおりに仕上がらない。遅れの根は、能力よりも、人にあった。

DeepMindからの人材流出と、遅れとの関係
DeepMindからの人材流出と、遅れとの関係

月に一度のGemini 4という賭け

守りに回るだけでは、失った先頭は戻らない。ピチャイは、次の一手も示した。次世代のGemini 4を「極めて野心的な計画」と呼び、より大きなモデルをいま訓練中で、発表すれば最前線へ返り咲けると自信を見せた。さらに、Gemini 4の系列は、今後「ほぼ毎月、新しいモデルを出す」に近い速さで更新していくと明かした(BigGo Finance)。一つの旗艦を年に一度、満を持して出すやり方から、細かく速く出し続けるやり方へ。競合の反復の速さに、反復の速さで応じる構えだ。

ピチャイの強気の背後にあるのは、モデル単体ではなく、束ねられた土台への自負だ。グーグルは、AIを動かす計算基盤と、自社設計の専用チップと、製品の隅々まで通したGeminiを、一社の中に垂直に積んでいる。同じ決算で、クラウド事業は前年から82%伸び、市場が見込んだ64%を大きく上回った。旗艦一つの遅れに市場の目が集まるなか、ピチャイが投資家に見せたかったのは、この土台の厚みだった。問われているのは、その厚みを、AIコーディングと最前線の推論という、いま最も評価される能力へ、どれだけ速く変換できるかである。安さで裾野を押さえるFlashと、人が抜けた現場で仕上げるGemini 4。グーグルの巻き返しは、この二つがどこで噛み合うかにかかっている。