元グーグル技術者らが設立した新興企業MatXが、独自のAIチップでエヌビディアが築いた市場への挑戦を本格化する。同社は既存のGPUやTPUとは異なる「データフロー」方式を採用し、特定条件下で電力効率を5倍に高める目標を掲げる。既にセコイア・キャピタルなどから総額2億ドルの初期資金を確保し、台湾積体電路製造(TSMC)の最先端3ナノメートル工程での製造を計画。データセンターの電力消費という巨大な課題解決を狙い、日本の素材・装置産業にも新たな商機をもたらす可能性がある。

エヌビディア独走市場への亀裂

人工知能(AI)向け半導体市場は、米エヌビディアの独走が続いている。調査会社Omdiaが2024年3月に公表した調査によれば、同社のデータセンター向けGPU(画像処理半導体)の市場占有率は2023年時点で金額ベースで92%に達した。この牙城に対し、MatXは正面からの競合を避け、特定用途に最適化した設計で挑む。MatXが狙うのは、大規模言語モデル(LLM)の「推論」処理だ。学習に比べ計算量は少ないが、実行頻度が桁違いに多い推論では、電力効率が運用費用に直結する。MatXの共同創業者ライナー・ポープ氏は、自社のチップがエヌビディアの現行主力製品「H100」と比較して、特定の推論タスクにおいて5倍の電力効率を実現する設計目標を公表している。これは、AI半導体市場全体が急拡大する中で、特定の需要層を切り取る戦略と見られる。米ガートナーの2024年4月予測では、AI半導体市場の規模は2023年の534億ドルから、2028年には1,194億ドルへと倍増する見通しで、特定用途向けチップの市場余地は大きい。

なぜ「データフロー」方式が有利なのか?

MatXの技術的な核心は、「データフロー」と呼ばれるコンピューター構成方式にある。これは、命令が順番に実行される従来の「制御フロー」方式とは根本的に異なる。データフロー方式では、計算に必要なデータが揃った演算器から順に自律的に処理が進む。これにより、命令の解読や待機にかかる無駄な電力消費を大幅に削減できる。物理的には、多数の小規模な演算器(プロセッシング・エレメント)を格子状に配置し、データがチップ上を流れながら次々と処理される構造をとる。これは、GPUが持つ数千の演算コアを中央の制御機構が管理する構造とは対照的だ。GPUは汎用性が高い半面、データ移動に伴う内部通信がボトルネックとなり、電力消費が増大する傾向があった。MatXの方式は、データの局所性を最大限に活用し、チップ内部でのデータ移動距離を最小化する設計思想に基づいている。このため、汎用性は犠牲になるが、推論のような定型的な処理では高い効率を発揮する。類似の方式は、米国の新興企業Groqも採用しており、同社の言語処理装置(LPU)は、一部のLLMでGPUを大幅に上回る処理速度を記録している。MatXは、このデータフロー方式をさらに洗練させ、より大規模なモデルへの適用を目指していると見られる。

TSMC 3nm工程選択の狙いと供給網

MatXは、チップの生産をTSMCの最先端プロセスである「N3E」に委託する計画だ。N3Eは3ナノメートル世代の改良版プロセスで、前世代の5ナノ工程(N5)に比べ、同一性能で消費電力を34%削減、または同一消費電力で性能を18%向上できるとTSMCは公表している。初期資金2億ドルの大半は、この最先端プロセスの利用に必要な設計費用と、製造委託の初期費用に充当される見通しだ。最先端プロセスを利用するには、回路設計の複雑化に加え、マスク(回路の原版)作製費用が1セットで数千万ドルに達することもある。MatXがこの高コストな選択をした背景には、電力効率の目標達成には微細化が不可欠との判断がある。演算器を構成するトランジスタの集積度を高め、素子間の配線距離を短くすることが、データフロー方式の利点を最大限に引き出す鍵となる。この選択は、MatXがアップルやクアルコムといった巨大企業と同じ供給網にアクセスすることを意味する。一方で、TSMCの先端プロセスは需要が集中しており、MatXのような新興企業が十分な生産枠を確保できるかは不透明だ。この供給枠の確保が、2026年に計画する製品投入の成否を左右する重要な要素となる。

創業チームの経歴とグーグル時代の遺産

MatXの競争力の源泉は、創業者らの経歴にある。CEOのライナー・ポープ氏とCTOのマイク・ガンター氏はともに米グーグルの出身で、同社のAI専用チップ「TPU(テンソル・プロセッシング・ユニット)」の初期開発に深く関与した人物だ。TPUは、2015年に登場して以来、グーグルのデータセンターでAI処理の中核を担ってきた。初代TPUは、同世代のGPUと比較して推論処理で15〜30倍の性能電力比を達成したと、グーグルが2017年に発表した論文で明らかにしている。ポープ氏らは、このTPU開発で培った知見、特にハードウエアとソフトウエアを協調設計し、特定用途に最適化する手法をMatXで応用している。TPUが採用した「シストリックアレイ」という計算方式も、データフロー方式の思想に近い。グーグルで巨大な計算基盤を運用した経験から、彼らはデータセンター全体の電力効率と運用費用(TCO)の重要性を熟知している。この経験が、エヌビディアの汎用GPUとは異なる、より抜本的な電力削減を目指す製品開発へと繋がっていると見られる。創業チームには、グーグルだけでなく、インテルやブロードコムなど他の半導体大手出身の技術者も集まっており、業界内での人脈も強みとなっている。

日本企業が直面する選択

MatXのような新興企業の挑戦は、半導体製造装置や素材を手がける日本企業にとって新たな事業機会となる。TSMCの3ナノ工程には、東京エレクトロンの塗布現像装置やSCREENホールディングスの洗浄装置、ディスコの研削・切断装置が不可欠だ。また、EUV(極端紫外線)リソグラフィーに用いられるフォトレジスト(感光材)は、JSRや信越化学工業、東京応化工業といった日本企業が世界市場の約9割を占める。MatXのチップが量産段階に入れば、これらの日本企業の受注増に直結する。特に、MatXのチップが採用する可能性のある「チップレット」技術(機能の異なる複数の小チップを高密度に実装する技術)は、新たな課題と商機を生む。チップレットを接続する微細な配線を形成する技術や、異なるチップを重ねる「3D実装」では、日本の装置・素材メーカーが強みを持つ分野だ。例えば、アドバンテストの検査装置は、こうした複雑な構造を持つ半導体の良品判定に不可欠となる。一方で、リスクも存在する。MatXの事業が軌道に乗らなければ、日本企業が先行して進めた開発投資が無駄になる可能性もある。また、AIチップの設計が多様化することで、顧客ごとに異なる仕様の装置や材料が求められ、開発負担が増すことも考えられる。特定の顧客に依存するのではなく、次世代の様々なチップ設計に対応できる汎用的な技術基盤を維持・強化していくことが、日本企業に求められる選択となるだろう。