2019年にグーグルが「量子超越性」を実証して以降、量子コンピューティングの開発競争は国家間の覇権争いの様相を呈している。米国、中国、欧州連合(EU)は国家主導で巨額の投資を行い、技術開発を加速。既存の暗号システムを無力化しかねないこの技術は、経済安全保障上の最重要課題となっている。

量子コンピューティングの黎明期

量子コンピューターの概念は、1980年にロシアの数学者ユーリ・マニンが、翌1981年には米国の物理学者リチャード・ファインマンがそれぞれ提唱した。ファインマン氏の「自然をシミュレートしたいなら、量子力学を使うべきだ」という言葉が、その後の研究の大きなきっかけとなった。

長い研究停滞期を経て、1994年にベル研究所のピーター・ショアが「ショアのアルゴリズム」を発表。これにより、量子コンピューターが既存の暗号システムを理論上解読可能であることが証明された。2007年には、世界初の量子コンピューティング企業であるカナダのD-Wave Systemsが16量子ビットのマシンを発表し、研究室レベルの技術が実用化へと一歩踏み出した。

グーグルの「量子超越性」達成

2019年10月、グーグルは科学誌『ネイチャー』で「量子超越性」を達成したと発表した。同社の量子チップ「Sycamore」が、当時世界最速のスーパーコンピューター「Summit」でも1万年を要するとされた計算を、わずか200秒で完了させたと報告。これにより、特定の問題において量子コンピューターがすべての古典コンピューターを凌駕することが示された。

この発表は世界に衝撃を与え、英誌『エコノミスト』は「量子版スプートニク・ショック」と評した。この成果の背景には、シリコンバレーのスタートアップから米中欧日韓による国家的な投資に至るまで、40年にわたる熾烈な技術開発競争があった。量子コンピューティングは、その誕生当初から大国間競争の焦点となってきたのである。

「原子爆弾」に例えられる脅威

量子チップが「原子爆弾」と形容されるとき、それは単なる技術力への畏怖だけでなく、文明への不安を映し出す。最大の懸念は、暗号システムの崩壊だ。現在の金融、軍事、政府の通信を支える暗号技術は、古典コンピューターでは現実的な時間内に巨大な素因数分解ができないという前提に基づいている。しかし、「ショアのアルゴリズム」は、十分にに強力な量子コンピューターがこの前提を覆すことを理論的に証明している。

この脅威に対し、2023年に米国家安全保障局(NSA)は、すべての政府機関に「ポスト量子暗号(PQC)」への移行を促す声明を発表した。世界は国家総力戦でこの問題に取り組んでいる。中国は「第14次五カ年計画」で量子情報を優先分野と位置付け、欧州連合は「Quantum Flagship」計画で10億ユーロを投じる。米国議会も超党派の法案を可決し、12億ドル以上を研究に投じている。企業の国・地域別分布を見ても、欧州連合が230社以上(29%)、米国が210社以上(26%)、中国が140社以上(17%)と、三極構造が鮮明だ。

日本市場への影響

グーグルの「Sycamore」チップによる「量子超越性」達成は、日本経済に直接的な脅威と機会を突きつける。まず、既存の暗号システムが量子コンピューターによって解読されるリスクは、日本の金融機関や防衛関連企業にとって喫緊の課題だ。例えば、現在の金融取引や政府通信を支える暗号技術が「ショアのアルゴリズム」によって破られる可能性は、サイバーセキュリティ対策の抜本的な見直しを迫る。特に、米国家安全保障局(NSA)が「ポスト量子暗号(PQC)」への移行を促している現状は、日本企業も国際標準に合わせた対応を急ぐ必要性を示唆している。

一方で、量子技術は新たな産業創出の機会も提供する。中国が「第14次五カ年計画」で量子情報を優先分野とし、欧州連合が「Quantum Flagship」計画で10億ユーロを投じる中、日本は量子技術開発への国家的な投資を強化し、国際競争力を高める必要がある。特に、カナダのD-Wave Systemsのような量子コンピューティング企業が黎明期に実用化を進めたように、日本のスタートアップや既存企業がこの分野で独自の技術を確立できれば、新たなグローバル市場での主導権を握る可能性を秘めている。現状、企業の国・地域別分布で日本が言及されていないことは、この分野での立ち遅れを示唆しており、早急な戦略構築が求められる。