南シナ海の軍事的緊張が、半導体供給網の新たな急所として浮上している。台湾有事のリスクに加え、フィリピン周辺海域での中国との対立が、世界の半導体後工程の約4分の1以上が集まる東南アジア諸国連合(ASEAN)地域への物流を直接脅かし始めたからだ。国際海運会議所の試算では、同海域の航行制限はコンテナ船の運航費用を即座に15%以上押し上げる。この事態は、最先端の論理半導体を台湾積体電路製造(TSMC)に、後工程を先進積體電路(ASE)など台湾・ASEAN勢に依存する現在の分業構造の脆弱性を露呈させる。信越化学工業や東京エレクトロンといった日本の素材・装置大手にとっても、輸出経路と顧客構成の見直しは待ったなしの経営課題となりつつある。
「航行の自由」から「供給の自由」へ
南シナ海を巡る地政学リスクは、従来の「航行の自由」という安全保障上の抽象的な懸念から、半導体という特定産業の「供給の自由」を脅かす具体的な経済問題へと変質した。国連貿易開発会議(UNCTAD)が2023年に公表した報告書によれば、世界の海上コンテナ輸送量の約21%がこの海域を通過する。これは単に中東からの原油輸送路というだけでなく、日本の素材・装置メーカーがASEANや台湾の顧客へ製品を届けるための生命線でもある。特に、東京エレクトロンの塗布現像装置(コータ・デベロッパ)やディスコの切断装置(ダイサー)といった精密機器は、振動や温度変化に敏感であり、迂回航路による輸送期間の長期化は品質劣化のリスクを伴う。
フィリピン沿岸警備隊の記録では、2023年における中国海警局による妨害行為は年間97件に達し、前年の30件から3倍以上に急増した。スカボロー礁やセカンド・トーマス礁周辺での放水や進路妨害は、偶発的衝突のリスクを著しく高めている。この海域の緊張が海上保険料率に与える影響は無視できない。ロイズ保険組合傘下の共同戦争危険委員会(JWC)は、台湾海峡を既に危険水域に指定しているが、南シナ海北部も指定されれば、船主が負担する追加保険料は航海ごとに数百万ドル規模に跳ね上がる可能性がある。これは、1個数円の受動部品から1台数十億円の露光装置まで、あらゆる部材の最終的な調達価格に転嫁されることを意味する。
なぜASEAN後工程拠点が急所なのか?
世界の半導体供給網において、なぜASEAN、特にマレーシアとフィリピンがこれほど重要な急所となるのか。その答えは、製造工程の最終段階を担う「後工程(OSAT: Outsourced Semiconductor Assembly and Test)」の世界的な集積地であるからだ。市場調査会社TrendForceの2024年3月の分析によると、ASEAN地域は世界のOSAT市場で約27%のシェアを占める。具体的には、世界最大手の台湾・先進積體電路(ASE)はマレーシアのペナンに大規模拠点を構え、米アムコー・テクノロジーはフィリピンに複数工場を展開する。これらの工場では、台湾や韓国で製造されたシリコンウエハー上のチップを切り出し、基板に実装し、樹脂で封止して最終製品に仕上げる作業を一手に引き受けている。
この後工程が滞れば、たとえTSMCが3ナノメートル(ナノは10億分の1)世代の最先端チップを製造できても、スマートフォンやデータセンター向けに出荷することはできない。サプライチェーンの最終工程におけるボトルネックとなるのだ。日本企業との関係も深い。例えば、ディスコが世界シェア約7割を握るダイシングソー(ウエハー切断装置)や、新川(現・ヤマハモーターロボティクスホールディングス)が得意とするワイヤボンダー(電極接続装置)は、これらのASEAN工場で不可欠な役割を担う。日本の財務省貿易統計によれば、2023年の半導体製造装置の国・地域別輸出額で、台湾、中国に次いでシンガポールやマレーシアといったASEAN諸国が上位を占めており、その額は合計で年間5000億円規模に上る。南シナ海の緊張は、日本の基幹産業である製造装置メーカーの販売機会を直接的に脅かす。
台湾有事シナリオとの連動と相違
南シナ海リスクは、これまで半導体業界最大の懸念とされてきた台湾有事シナリオと密接に連動しつつ、異なる性質を持つ。台湾有事が発生した場合、TSMCや聯華電子(UMC)といった世界最先端のファウンドリー(半導体受託製造)からの供給が完全に停止する。これは世界の電子産業にとって致命的な打撃であり、米半導体工業会(SIA)の2021年の試算では、その経済損失は初年度だけで1兆ドルを超えるとされる。これに対し、南シナ海リスクは、供給の「完全停止」ではなく「目詰まり」と「費用増」という形で、より慢性的かつ広範囲に影響を及ぼす可能性がある。
具体的には、台湾海峡とフィリピン北側のルソン海峡が同時に封鎖される事態が最も警戒される。この場合、日本や韓国からASEANの後工程拠点へ向かう部材や、ASEANから日米欧の最終製品組立工場へ向かう半製品の輸送は、インドネシア南方のスンダ海峡やロンボク海峡への大幅な迂回を強いられる。航行日数は7日から10日程度増加し、燃料費と人件費だけでコンテナ1個あたり数千ドルの追加費用が発生する。さらに深刻なのは、日本の素材産業への影響だ。信越化学工業とSUMCOで世界シェアの約6割を占めるシリコンウエハーや、JSR、東京応化工業などが9割近いシェアを持つEUV(極端紫外線)フォトレジストといった高機能化学材料は、厳格な納期管理が求められる。輸送遅延は顧客工場の生産計画を狂わせ、代替調達への切り替えを促しかねない。2019年の日本による対韓輸出管理厳格化の際、韓国企業がフッ化水素の内製化や調達先の多角化を急いだように、地政学リスクは技術的優位性を一瞬で無力化する可能性がある。
「チャイナ・プラスワン」の死角
米中技術摩擦の激化を受け、多くのグローバル企業が生産拠点を中国から東南アジアへ移す「チャイナ・プラスワン」戦略を加速させてきた。しかし、南シナ海情勢の緊迫化は、この戦略が内包していた地政学的な死角を浮き彫りにした。生産拠点を物理的に中国国外へ移しても、部材や製品が通過する海上交通路が中国の影響圏にあれば、供給網のリスクは本質的に解消されないからだ。特に半導体産業では、前工程を台湾・韓国、後工程をASEANに依存する分業体制が定着しており、この構造自体が南シナ海リスクに対して脆弱である。
このリスクを回避する動きも出始めている。米インテルは、マレーシアに加えてポーランドやドイツでの後工程能力増強に約400億ドルを投じる計画を発表。TSMCも、米国アリゾナ州での前工程工場に加え、日本でソニーグループなどと共同で後工程の研究開発拠点を設立した。これは、地政学リスクの低い地域で、設計から後工程まで一貫したサプライチェーンを構築しようとする「域内完結」への明確なシフトである。日本政府もこの動きを後押ししており、経済産業省は2023年度補正予算で、後工程技術の研究開発拠点(AIPT)の設立などに約640億円を計上した。ただし、こうした代替拠点の構築には3年から5年の歳月と巨額の投資が必要であり、当面は既存のASEAN拠点への依存構造が続く。その間、南シナ海での緊張は、半導体価格の上昇や特定製品の供給不足という形で、消費者や最終製品メーカーに直接的な影響を及ぼし続ける可能性がある。
日本企業が直面する選択
南シナ海における「灰色の領域(グレーゾーン)」での対立激化は、日本の半導体関連企業に3つの戦略的選択を迫っている。第一に、物流経路の複線化と在庫管理の最適化だ。従来のジャストインタイム方式を見直し、重要部材については国内やリスクの低い第三国での戦略的備蓄を増やす必要がある。第二に、顧客ポートフォリオの地理的分散である。ASEANや台湾への依存度を抑制し、日米欧で建設が進む新たな半導体工場群への食い込みを加速させることが急務となる。東京エレクトロンやアドバンテストといった装置メーカーは、既に北米や欧州での売上比率を高める戦略を鮮明にしている。第三の選択肢は、最も困難だが根本的な解決策となりうる、後工程技術そのものの革新だ。チップレット技術(個別の機能を持つ小チップを高密度に接続する技術)や3D実装技術が進化すれば、特定地域の後工程拠点への依存を低減し、より柔軟な生産体制の構築が可能になる。日本の素材・装置メーカーが持つ要素技術は、この分野で大きな貢献が期待される。南シナ海の波濤は、日本の技術力が再びその真価を問われる試金石となっている。