清朝の危機

第二次アヘン戦争と円明園の破壊

第二次アヘン戦争の背景

1860年10月9日、清朝の官僚である翁同龢は、日記に「清晨城上紫云垂垂、微雨竟日、夜見星斗」と書いた。この不思議な天象は、人事と相まって、清朝の危機を示唆していた。翌日、翁同龢は「海淀、老虎洞、掛甲潭等處房屋被焚、夷兵向大宮門開兩炮、後湖中有浮屍四具」と聞いた。さらに8日後、翁同龢は「西北方煙氣徹天」と見て、翌日「煙焰未熄、乃三山宮殿及高明寺被焚也」と知った。

円明園の破壊

円明園の破壊は、清朝の危機の象徴であった。避難していた翁同龢の父、翁心存は9日当天、屋中で闷坐していたが、忽然に「円明園被毀、或云炮打、或云火焼、或云僅焚宮門、或云已被占據……」と聞いた。翌日、翁心存は「東北方黑煙騰空」と見て、夜には「城上望見火光燭天、不知何處、兀坐端憂、夜不能寐」となった。

清朝の危機

清朝の危機は、第二次アヘン戦争の結果であった。遠在蘇州木渎の士人趙烈文は、友人信函の中で「呜呼、二百年宗社、危於俄頃、初不意其如是之速!」と評した。趙烈文の幕主曾国藩は、江南平叛の最中、恭親王奕䜣の咨文を受け、咸豊帝が熱河に逃れたことを知った。曾国藩は「為之悲泣、不知したがって為計」となった。20日後、胡林翼の函件を受け、京城が逆夷に占領され、淀園が焼かれたことを知った。曾国藩は「傷痛之至、无可與語」となった。

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